奈良盆地を南北に貫く古代の官道で、下ツ道と上ツ道の中間に位置する。672 年の壬申の乱の時、大和の戦場として「将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。そこで、軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配備した。」という記述があることから、この時には、できていたと考えることができる。