長尾神社
竹内街道の始発・終着点となる神社であり、横大路の西端に位置する。東に向かえば横大路、伊勢街道、西に向かえば竹内街道、長尾街道、南に向かえば高野街道と複数の歴史街道が交わり、交通の要であったことから、古くから旅の安全を祈願する旅人に信仰された。また大和に住んでいた巨大な大蛇の頭が三輪明神、尾は長尾神社と言い伝えられている。
竹内峠
江戸時代、「お陰参り」の道として人々が竹内峠を往来した。1876年の堺県による奈良県併合を機に峠の改修工事が行われ、南大阪と大和を結ぶ重要な道として整備された。
大道旧山本家住宅
竹内街道沿いの太子町山田餅屋橋のたもとにある民家で、この地域特有の大和棟の形態をよく残し、街道の面影を伝える住宅である。
鹿谷寺跡
岩屋同様、大阪と奈良との府県境にある二上山を越える岩屋越え沿いにあり、奈良時代に二上山麓の岩盤を掘り込んで造られた日本では珍しい「大陸風」の石窟寺院である。寺跡中心には十三重の石塔と岩窟に彫りこまれた線刻の三尊仏坐像が残っている。
岩屋
大阪と奈良との府県境にある二上山を越える岩屋越え沿いにある。奈良時代に造られた大小二基の石窟からなる石窟寺院で、鹿谷寺跡とともに、我が国唯一の「大陸風」石窟寺院であるが、文献記録もなく誰が作ったのかもわからない、謎の多い寺跡である。
叡福寺
竹内街道を東に進み太子町に入り、春日の集落を越えると南側に上の太子と称された叡福寺がある。聖徳太子御廟を守護するために、推古天皇によって建立され、奈良時代には聖武天皇が大伽藍を整備したと伝えられている。聖徳太子信仰の霊場として発展した。
磯長谷古墳群
太子町に入り春日の集落を越えて、道の南側には敏達、用明、推古天皇と聖徳太子が、道沿いの北側には孝徳天皇が祀られた5基の古墳があり、5弁の梅の花になぞらえて「梅鉢御陵」と言われる。国史跡二子塚古墳など30基の古墳からなる古墳群で、古墳時代の終わりから飛鳥時代に造営された。
小野妹子墓
竹内街道から太子町山田の餅屋橋で飛鳥川を渡って南に下ると、日本で初めて遣隋使として隋に派遣された小野妹子の墓にでる。科長神社の南側の小高い丘の上の塚が小野妹子の墓と伝えられる。
月読橋・飛鳥川の歌碑
竹内街道と飛鳥川が交わるところに架かる橋。その50mほど上流にある石碑には柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)の歌、「あすか河 もみじ葉ながる 葛城の 山の秋風 吹きぞしぬらし」が刻まれる。
古市古墳群
東西 4.0km、南北 4.0km の範囲に広がる百舌鳥古墳群と並ぶ日本を代表する古墳群。全国第2位の大きさを持つ応神天皇陵古墳をはじめとする45基の古墳が現存する。白鳥陵古墳の北側を通る竹内街道の道筋からは、広い濠の水面に前方後円墳の美しい姿を見ることができる。
誉田八幡宮
欽明(きんめい)天皇の頃、勅命で応神陵の前に創建されたと伝えられる八幡宮。拝観庫には源頼朝の寄進と伝えられる神興をはじめ、数々の国宝・重要文化財が収められている。
野中寺
竹内街道が羽曳野市野々上の集落に入り、街道から 340m北に飛鳥時代から白鳳時代にかけて創建された野中寺がある。聖徳太子の命で蘇我馬子が建てたと伝えられ、「中の太子」と呼ばれている。白鳳期を代表する弥勒菩薩半跏思惟像が境内には残る。
真福寺遺跡・太井遺跡・余部日置荘遺跡
優れた鋳造技術をもつ「河内鋳物師」よばれた集団の活動拠点として奈良時代から中世にかけての集落跡・城館跡で、溶解炉・るつぼ・鞴羽口(ふいごはぐち)・鋳型片(いがたへん)をはじめ鋳物を鋳造したと考えられる土壙(どこう)等、鋳造関連の遺構・遺物がみつかっている。これらの遺跡は、竹内街道の南側、下高野街道と中高野街道上にあり交通の衝にあたる。
堺打刃物
古来から伝わる鍛鉄の技術が刀鍛冶や鉄砲の生産にひきつがれ、堺が自治都市として繁栄する一つの要因となる。江戸時代に入るとその技術から、出刃包丁をはじめとした包丁の開発につながった。
山口家住宅
堺が大阪坂夏の陣で焼失した直後に建てられた、国内でも珍しい江戸初期の住宅。当時の町家や暮らしぶりを知ることができます。
堺環濠都市遺跡
中世に栄えた環濠を持った自治都市・貿易都市の遺跡。大阪坂夏の陣で焼失したが、その後再建され、江戸時代の街並みを残している。竹内街道は堺の北の荘と南の荘の境を分けるように大小路口から開口神社の南を通って東に向かう。
百舌鳥古墳群
東西南北約 4 キロメートルの範囲に広がる古墳群で、古市古墳群と並んで独特な古墳文化を築き日本最大の仁徳天皇陵古墳をはじめとする 44 基の古墳が残っている。竹内街道は大小路を起点として、仁徳天皇陵古墳の北側を真っ直ぐ東西に伸びる。
金岡神社
難波大道と竹内街道の交差点にあり、古くは住吉大神を祀っていたが、この後平安時代の宮廷画家でやまと絵の祖といわれる巨勢(こせ)金岡を合祀してから現在の名称に変わっている。神社の南を進むと道幅 3.5mの沿道に白壁の蔵や古い町家が並ぶ一画に出るが、この付近は「大道町」の地名を残している。
開口神社
中世の自治都市堺の南荘にあり、竹内街道の起点となる大小路からすぐ東側にある。の南側に位置する。武野紹鷗(たけのじょうおう)、千利休らの茶人や会合衆の寄進によって、修復がなされており、堺の中心的な氏神である。また、行基が境内に念仏寺を建立し、空海が宝塔を建てたので「大寺(おおてら)さん」とも呼ばれている。
山田道
5・6世紀の宮の所在地であった磐余(いわれ)から南下して飛鳥を通過し、下ツ道の軽の衢へといたる古代の道。平安時代の説話集『日本霊異記(りょういき)』の雄略天皇の時代の記述に「阿倍山田の前の道」が登場する。
上ツ道
奈良盆地の東縁を南北に貫く古代の官道。桜井市街地付近で横大路と交差し、壬申の乱の戦場となった箸墓古墳の東側を通り、天理市へと続いている。その一部は中世以降に長谷・伊勢方面への参詣道となり、現在もその痕跡をとどめている。
中ツ道
奈良盆地を南北に貫く古代の官道で、下ツ道と上ツ道の中間に位置する。672 年の壬申の乱の時、大和の戦場として「将軍が本営の飛鳥に帰ると、東国からの本隊の軍が続々やってきた。そこで、軍を分けて、それぞれ上道・中道・下道にあてて配備した。」という記述があることから、この時には、できていたと考えることができる。
下ツ道
奈良盆地を南北に貫く古代の官道。道の南端は丸山古墳の北側で、札の辻で横大路と交差し、平城京羅城門があったとされる大和郡山市観音寺に至る。
横大路
奈良盆地を真東西に結ぶ道。難波から飛鳥京、藤原京などを結ぶ古代の官道をもとにし近世には、大阪や西日本各地から渡辺津で船を降りた人の伊勢参りへの道として賑わう。大阪と大和国との商業流通の生活の道でもあり、大阪側では、竹内街道につながり、奈良盆地南部を東西に一直線に結んで初瀬街道に通じる。
難波宮跡
大化改新にともなう難波遷都以来約150年間、難波宮は日本の古代史上に大きな役割を果たしました。長年にわたる発掘調査の結果、前期・後期二つの時期の難波宮跡が、中央区法円坂一帯の地にひろがっていることが明らかになり、現在、内裏・朝堂院などの中枢部が、国の史跡に指定されています。
日本庭園
造園技術の粋を集めた伝統的な庭園。総檜作りの門を抜けると、美しい池や渓流、さまざまな風流な建物、四季折々の花に出会えるほか、呈茶も楽しめます。